| 2勝目までのヒストリー | |
1996-1997年:ミナルディ〜ジョーダン時代
1996年オーストラリアGP、メルボルン。ミナルディで予選16位と大健闘しながら越えられなかった、憧れのF1のフィニッシュライン。
1997年、ジョーダンチームからフル参戦デビューを果たしたフィジコは、この年のスペインGPで早くもファステストラップを獲得! カナダGPでは3位表彰台、ドイツGPではフロントローグリッドを獲得し、ベルギーGPではスパウェザーをまさにエンジョイしながら、あざやかな2位入賞を果たした。
観るものを魅了してやまないアグレッシブかつ未知数の走り、そして新人ながら数々の好成績で、ジョーダンチームをそれまで最高のコンストラクター5位に導く活躍を見せたこの1997年は、まさに将来のワールドチャンピオンを予感させるデビューイヤーとなった。1998-2001年:ベネトン時代
1998年にベネトンへ移籍したフィジコは確実な成長を遂げ、モナコGP・カナダGPと2戦連続で2位表彰台を獲得。さらに雨のオーストリアGP予選では、ついに念願の初ポールポジションを獲得!! ベネトン・チームとしては、1997年イタリアGPのアレジ以来、イタリア人ドライバーとしては、なんと1992年ハンガリーGP、ウィリアムズのリカルド・パトレーゼ以来6年ぶりのポールポジション獲得となった。
2001年まで、イタリアのベネトンチーム最後のイタリアンドライバーとしてチームを引っ張ってきた4年間は、トップチームに劣るパッケージで苦戦を強いられる時期が長く続いた。そんな中、逆に非力なパッケージで毎年必ず表彰台に上るパフォーマンス、ウェットでの速さ、そしてモナコGP、カナダGP、ベルギーGPなど、屈指のドライバーズコースでの速さを武器に、記録にも記憶にも激しく残るレースの数々を見せてくれたフィジコ。
母国イタリアから遠く離れた日本でも、そんなフィジコの活躍に心を奪われるF1ファンが続出。1998年末、ついにジャンカルロ・フィジケラ 日本公式ファンクラブが発足となった。幻の初優勝
1998年カナダGPでは、完走10台のサバイバルレースの中、3度のセイフティカー導入にも冷静に対応し、実に21周に渡ってトップを走り続けたフィジコ。しかし、ピットストップでM.シューマッハにかわされ、さらに3速ギアにトラブルが発生。ペースをあげることができず、惜しくも2位となった。
1999年ヨーロッパGPでは、途中2度の小雨にもタイヤ交換をせず、ドライタイヤのままコースアウトする場面もありながら、中盤には堂々のトップに立ったフィジコ。トップに立つドライバーに次々とトラブルがおそいかかる展開の中、フィジコにも残念ながらトラブルが発生。シケイン通過時にでヘッドレストを失ったことがきっかけで、マシンのコントロールを失い、スピンしてコースアウト、リタイヤとなってしまった。2002-2003年:第2期ジョーダン時代
2002年、フィジコはついに、華々しい1997年シーズンを共にしたジョーダンチームに復帰。さらに栄光のホンダドライバーの仲間入りを果たし、さらに日本人ドライバー佐藤琢磨とパートナーを組むことになった。この年のヨーロッパGPで、フィジコはF1GP100戦目のマイルストンを越えた。
決してラクではなかったシーズンながら、3戦連続入賞でホンダドライバーをリードし、チームを活気づけたフィジコの実力を一番よくわかっていたのは、まさに同じドライバーであるライバルたちだった。このシーズン後、現役F1ドライバーが選ぶ"F1 Driver's Driver of 2002 Award"に、フィジコが選出されたのだ。
複雑な初優勝
2003年ブラジルGP。30歳のフィジコがまさにキャリアのどん底で迎えた、雨の日曜日。ジョーダンとしては大健闘の予選14位からスタートしたフィジコは、大波乱の過酷なレース展開の中、何度となく目前のアクシデントを回避しながら順位を上げ、レース途中からなんと1ストップ作戦を敢行。ついに前を行くライコネンを捕らえて一気にオーバーテイク、堂々のトップに。まもなく大アクシデントでレースは赤旗中断、終了となり、戻ったフィジコのマシンから炎が上がる。まさにギリギリの走りだった。
だが、ジョーダンチーム200戦目の記念のGPで初優勝というものすごい祝福の嵐の中、周回数によりなんとフィジコは2位という判定に。2001年ベルギーGP以来の表彰台は、これまでの数々の表彰台の中でも、一番硬い表情だったかもしれない。
決勝の3日後、ブラジルGPタイムキーパーのミスにより、フィジコ初優勝の可能性が急浮上。その2日後、ついにフィジコの初優勝が確定。もう「もっとも才能のある未勝利ドライバー」ではなくなったのだ!
翌週に迎えた地元サンマリノGPの金曜日、ブラジルGPの優勝トロフィー授与式が、イモラのスタートフィニッシュライン付近で行われ、ついにフィジコの手に初優勝トロフィーが渡った。2004年:ザウバー時代
長い冬のような苦難の時を初優勝で切り抜けて迎えた反動の時。フィジコは「青いフェラーリ」を選んだ。
燃料を多く積んでピットストップを遅らせるというコンサバティブなザウバー戦略が、持ち前のスムーズなドライビングスタイルにマッチし、後方から上位完走を果たす驚異的なレースを何度となく繰り返したフィジコ。次々とよみがえる本来のアグレッシブな速さ、そして長い苦闘の日々を経て培われてきたスマートな強さ。まさに、どこからスタートしても戦える−−そんなフィジコの再評価が高まる中、シーズン途中の7月下旬、早くもルノー(元ベネトン)への移籍が決定した。
実にこの年、かつての自己最高だったフル参戦デビューイヤー1997年の20ポイントを越える、22ポイントをようやく獲得したフィジコ。次の扉を開くための「自己証明の場所」と自ら位置付けたチームで、文字通りに自己を証明し、扉の鍵を得たのだった。2005年:ルノー時代−堂々のポールトゥウィン!
「打倒フェラーリ」を掲げるルノーチームで、新たなスタートを誓ったフィジコ。
迎えた開幕戦で、早くもフィジコの思いが現実となった。1996年の春、メルボルンのスタート−フィニッシュラインから希望に満ちて走り始めたフィジコは、9年後の2005年の春、まったく同じこのスタート−フィニッシュラインを、誰よりも速く駆け抜けた。誰にも文句は言わせない、堂々のポールトゥウィン。初めてのウィニングラン、初めての表彰台−−あの頃はあっという間に乗れると思っていたこの一番高い場所に、今日やっと乗れたのだ。その上に掲げられた、初めての自分のためのイタリア国旗、そしてイタリア国歌−−9年前に夢見ていたその日は、その夢は、この日、確かに始まった。フィジコとオーストラリアGP
意外にもオーストラリアはフェイバリットなコースではないというフィジコ。4位、5位の自己最高リザルトを出したのは、やはりベネトン(現ルノー)時代だった。2005年、ルノー移籍後の初戦を前に「今回は初めて、優勝争いができることを願ってメルボルンに行くつもりだよ」と語っていたフィジコ。その願いがまさに現実のものとなった。
様々なカテゴリーで天才的な速さを誇っていたフィジコは、ついに1996年、メルボルンで夢のF1デビューを果たした。ミナルディで予選16位と大健闘したが、憧れのF1のフィニッシュラインを超えることはできなかった。
ベネトン2年目の1999年は、大荒れの展開の中、途中の接触でほぼ最後尾に落ちながらも、終始落ち着いた走りで着実に挽回し、表彰台まであと一歩の4位入賞を果たした。相当アグレッシブだった当時、途中でなんとトップのアーバインにしかけようとして、周囲をヒヤヒヤさせるシーンも。だが、落ち着いたかけひきを見せるなど、精神的な成長ぶりもうかがえる走りで、実にこれがオーストラリアGP初完走となった。
ベネトン3年目の2000年、日曜朝のウォームアップ走行で6位と期待のかかる決勝だったが、クラッチトラブルにより出遅れ。さらにレース中に受けたダメージでマシンの状態が悪化したが、すぐにこのマシンのコントロールを把握し、限界を超えないドライビングをキープするという、それまでとは一味違うクレバーさを発揮し、見事に5位に入賞。この頃から、今やフィジコにとって最大の武器といわれる「スムーズなドライビング」テクニックが得られてきたのかもしれない。
そして、2005年オーストラリアGP。9年前にF1デビューを果たしたその同じサーキットで、同じスタート−フィニッシュラインを、最高の形で駆け抜けたフィジコ。フェンスによじ登り、身を乗り出して迎えたクルーに大きく手を上げて応え、スタンドの大歓声にも手を振り、何度もガッツポーズを繰り返し続けた。「ブラボー!フィジコ、ブラボー!」無線のブリアトーレの叫び声に、抑えていた喜びをひとしきり爆発させた後、一瞬の静寂を置いて、フィジコは感極まった声で丁寧に、無線を通じてチーム全員に語りかけた。
歓喜の初ウィニングランから戻ると、マシンを降りるまでガマンできずにまるで子供のように、まだ動いているマシンのステアリングを外してシートに立ち上がり、両手を真上に伸ばして大きくガッツポーズ。何度も体勢をくずしそうになりながら、何度も何度も力強いガッツポーズを飽きることなく繰り返した。後にも先にも、これほどまでに喜びを爆発させるF1ドライバーは決して現れないだろう。
ついに初めて表彰台の頂点に立ち、フェラーリではなく、イタリアンドライバーである自分のためのイタリア国歌を味わったフィジコ。国歌の終わりに自分の心臓部をドンドンと叩くそのしぐさは、自分のための国歌なんだと自分に言い聞かせるかのよう。そして、サーキット中のあらゆる人々に、全世界の人々に向かって、これは自分のための国歌なんだとアピールするかのように、挑戦的な表情に変わって、両手で激しく何度もガッツポーズを繰り返した。チームのためのフランス国歌が終わる頃、フィジコは自分のために掲げられたイタリア国旗を大きく目に焼き付けるかのように見上げ、自分のために大きなガッツポーズをした。念願のトロフィーを受け取ったフィジコは、すぐに両手で大きく掲げ、思わず両目をつぶって歓喜の声を上げた。
だが、何よりも人々の心に残るのは、決勝後の涙のプレスカンファレンスかもしれない。自らの発した「the best start of my career」という言葉をきっかけに、だんだんと笑顔が曇り出し、声が途切れ始めたフィジコ。「自分のキャリア」という言葉に、胸のうちでは、ずっと押さえ込んできた様々な思いが次々とあふれ出していたのかもしれない。言葉にならない思い、言葉にできない思い、言葉にできなかった思い。そして、これほど長い間封印されてきた実力を、呼び覚ましてくれたこのチームへの思い。チーム関係者への感謝の言葉を語る頃には、両目が真っ赤に潤んでいた。
いきなり舞い込んできたチャンスだった。今まで長い苦戦の日々を何度となくはいあがってきた、まったく同じ自分がまったく同じやり方で今回も挑んだだけなのに、その先に開いた道は、こんなにも大きく開けていたなんて。あれほど動かなかった世界が、景色が、こんなにも大きく、急速に変わっていくなんて。これからのフィジコ
初めてのウィニングラン、初めての表彰台で見せた爆発的な喜びよう、嬉しさをおさえきれないはしゃぎっぷりは、まさに1997年カナダGPでの初表彰台で見られた、あの頃の初々しいフィジコそのままだった。変わらぬピュアな速さに、数々の戦いを通じて研ぎ澄まされてきたテクニック。そして、ドラマチックなレース展開の数々を、生粋のローマっ子らしいオープンなハートとパワーで乗り切ってきた、しなやかな強さ。何度も手の届くところまで追いつめ、ついに手にした初優勝、そしてルノーというトップチームでのドライブ・・・そんなかけがえのない宝物の数々を得たフィジコにとって、今後数年間はまさにキャリアのハイライトになるだろう。
ただの1勝ではない。あまりに強力なポールトゥウィンは、夢のワールドタイトル争いへの宣戦布告だ。