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3勝目までのヒストリー



1996-1997年:ミナルディ〜ジョーダン時代

1996年オーストラリアGP、メルボルン。ミナルディで予選16位と大健闘しながら越えられなかった、憧れのF1のフィニッシュライン。
「チェッカーは受けられなかったけど、僕のF1初体験は満足できるものだったよ。」
まだあどけなさの残る弱冠23歳のイタリアンドライバー、ジャンカルロ・フィジケラは、次にめぐってきた出走のチャンス、ヨーロッパGPで初めてこの一線を越えたのだった。

1997年、ジョーダンチームからフル参戦デビューを果たしたフィジコは、この年のスペインGPで早くもファステストラップを獲得! カナダGPでは3位表彰台、ドイツGPではフロントローグリッドを獲得し、ベルギーGPではスパウェザーをまさにエンジョイしながら、あざやかな2位入賞を果たした。

ベルギーGP後のプレス・カンファレンスでは、自己最高のリザルトに、初めて「目標は優勝」発言も飛び出した。
「本当にすごくすごくハッピーだよ。今日はマシンが速くて、チームもピットでとてもよくやってくれた。スタートの時はすごく気を付けてドライブして、アレジとヴィルヌーヴをパスしたら、残る問題はもう、ミカ(ハッキネン)がレースの中盤ずっとすごく速かったことくらい。最後のストップの後は、差を保つことができて、今はすごくハッピーだよ。モンツァが待ちきれないよ、次の目標は優勝さ。」

観るものを魅了してやまないアグレッシブかつ未知数の走り、そして新人ながら数々の好成績で、ジョーダンチームをそれまで最高のコンストラクター5位に導く活躍を見せたこの1997年は、まさに将来のワールドチャンピオンを予感させるデビューイヤーとなった。

1998-2001年:ベネトン時代

1998年にベネトンへ移籍したフィジコは確実な成長を遂げ、モナコGP・カナダGPと2戦連続で2位表彰台を獲得。さらに雨のオーストリアGP予選では、ついに念願の初ポールポジションを獲得!! ベネトン・チームとしては、1997年イタリアGPのアレジ以来、イタリア人ドライバーとしては、なんと1992年ハンガリーGP、ウィリアムズのリカルド・パトレーゼ以来6年ぶりのポールポジション獲得となった。

オーストリアGP予選後のプレスカンファレンスで、アレジとハッキネンに囲まれた初々しいポールシッターは、息を弾ませながら語った。
「ドライコンディションの方がいいと思っていたから、予選の序盤はかなり心配だったんだ、雨がすごかったからね。目標は3列目に入ることだったけど、今はポールだよ。ウェットコンディションに対する見方を変えないといけないね。明日も雨が降りますように! このセッションはウェットタイヤでスタートしたんだけど、最初のアタックの後でエンジニアが聞いてきたんだ、タイヤを換えたいか?って。でも僕らはウェットタイヤのままで行くことに決めた。それが正しい選択で、ベストラップにつながったんだ。」

2001年まで、イタリアのベネトンチーム最後のイタリアンドライバーとしてチームを引っ張ってきた4年間は、トップチームに劣るパッケージで苦戦を強いられる時期が長く続いた。そんな中、逆に非力なパッケージで毎年必ず表彰台に上るパフォーマンス、ウェットでの速さ、そしてモナコGP、カナダGP、ベルギーGPなど、屈指のドライバーズコースでの速さを武器に、記録にも記憶にも激しく残るレースの数々を見せてくれたフィジコ。
長らく言われ続けてきた「もっとも優勝に近いドライバー」という評価を支えるのは、この時代に築いた実力なのかもしれない。

母国イタリアから遠く離れた日本でも、そんなフィジコの活躍に心を奪われるF1ファンが続出。1998年末、ついにジャンカルロ・フィジケラ 日本公式ファンクラブが発足となった。
この年以来、日本GPで開催されるファンクラブの「鈴鹿ミーティング」には毎年欠かすことなく駆けつけ、日曜のドライバーズパレードではいつも、ファンクラブの横断幕めがけて何度も何度も大きく手を振ってくれるフィジコ。サーキットを離れたフィジコの、カジュアルでファン想いな一面も、ファンにとっては本当に大切な魅力だ。

幻の初優勝

1998年カナダGPでは、完走10台のサバイバルレースの中、3度のセイフティカー導入にも冷静に対応し、実に21周に渡ってトップを走り続けたフィジコ。しかし、ピットストップでM.シューマッハにかわされ、さらに3速ギアにトラブルが発生。ペースをあげることができず、惜しくも2位となった。

「2戦で2位を2回だなんてものすごい結果だよ。ほんとに信じられない! ファンタスティックな結果だね。」と語るフィジコだったが、決勝後プレスカンファレンスで「勝てるかもしれないと思ったときはあったか?」との質問には、次のように答えていた。

「ん...僕らはだんだん良くなってきている、レースをするたびにね。今日は優勝がすごく近いところにあった。とにかく、重要なのは前にいること、重要なのは速くなること。もうすぐ優勝できればいいと思っているよ。」

1999年ヨーロッパGPでは、途中2度の小雨にもタイヤ交換をせず、ドライタイヤのままコースアウトする場面もありながら、中盤には堂々のトップに立ったフィジコ。トップに立つドライバーに次々とトラブルがおそいかかる展開の中、フィジコにも残念ながらトラブルが発生。シケイン通過時にでヘッドレストを失ったことがきっかけで、マシンのコントロールを失い、スピンしてコースアウト、リタイヤとなってしまった。

リタイヤ直後、ステアリングを投げ捨てたフィジコは、フェンスにもたれて泣くようなシーンも。フィジコのコメントにもあるように、そのまま走っていれば確かに優勝できたという手応えが、余計に悔しさにつながったのだろう。また、ピットにいたロッコ・ベネトンのなんともいえない横顔も、印象に残るものだった。

「チームのみんなには本当に申し訳ないよ。コースアウトしたのは僕自身のミスで、それさえなければこのレースに勝っていたはず。かけがえのないチャンスを棒に振ってしまったんだ。ちょっと言い訳できるとすれば、レース中にシケインでヘッドレストをなくしてしまって、頭が後ろに倒れてしまい、マシンのコントロールを失ってしまったってことだけだよ。」

2002-2003年:第2期ジョーダン時代

2002年、フィジコはついに、華々しい1997年シーズンを共にしたジョーダンチームに復帰。さらに栄光のホンダドライバーの仲間入りを果たし、さらに日本人ドライバー佐藤琢磨とパートナーを組むことになった。この年のヨーロッパGPで、フィジコはF1GP100戦目のマイルストンを越えた。

決してラクではなかったシーズンながら、3戦連続入賞でホンダドライバーをリードし、チームを活気づけたフィジコの実力を一番よくわかっていたのは、まさに同じドライバーであるライバルたちだった。このシーズン後、現役F1ドライバーが選ぶ"F1 Driver's Driver of 2002 Award"に、フィジコが選出されたのだ。

いつものように"I am very happy"と笑顔で口を開いたフィジコも、この賞の重みに、改めて勝利への想いを強く抱いたようだ。
「新車がよさそうだから、きっと今年はコンペティティブに戦えるはず。初優勝がほしい。そして、この先のためにも本当にコンペティティブになりたい。」

複雑な初優勝

2003年ブラジルGP。30歳のフィジコがまさにキャリアのどん底で迎えた、雨の日曜日。ジョーダンとしては大健闘の予選14位からスタートしたフィジコは、大波乱の過酷なレース展開の中、何度となく目前のアクシデントを回避しながら順位を上げ、レース途中からなんと1ストップ作戦を敢行。ついに前を行くライコネンを捕らえて一気にオーバーテイク、堂々のトップに。まもなく大アクシデントでレースは赤旗中断、終了となり、戻ったフィジコのマシンから炎が上がる。まさにギリギリの走りだった。

だが、ジョーダンチーム200戦目の記念のGPで初優勝というものすごい祝福の嵐の中、周回数によりなんとフィジコは2位という判定に。2001年ベルギーGP以来の表彰台は、これまでの数々の表彰台の中でも、一番硬い表情だったかもしれない。
「レース直後はみんな本当に勝ったと信じていたんだ、本当に素晴らしい瞬間だったけど、2位で残念だよ。...僕自身は優勝したと思っているし、今でも僕が勝利者だと思っているけど、ルールはルールだからね。2位になれるなんて思ってもいなかったから、嬉しいよ。チームのみんなに感謝したい。」

1997年当時から見守ってきたフィジコの、手が届きかけた初優勝を前に、エディ・ジョーダンは次のように語った。
「優勝まであと50秒だった。レースが中断していなければ、あの作戦で勝てていたはずだった。信じられないくらい素晴らしいことになるはずだった。 ・・・ジャンカルロにとっては胸が張り裂けるような思いに違いない。彼の気持ちは他の誰よりもわかっているつもりだよ。みんなが勝利を目撃したんだ。ジャンカルロはグランプリの歴史の中で、これまでもっとも才能のある未勝利ドライバーに違いない。ジャンカルロがここで表彰台に上ったことは本当に嬉しいし、これが将来のためになるはずだよ。」

決勝の3日後、ブラジルGPタイムキーパーのミスにより、フィジコ初優勝の可能性が急浮上。その2日後、ついにフィジコの初優勝が確定。もう「もっとも才能のある未勝利ドライバー」ではなくなったのだ!
「信じられないよ−−初優勝を金曜に決めて、1週間後にトロフィーを受け取るF1ドライバーなんて、僕が初めてに違いないね!」

翌週に迎えた地元サンマリノGPの金曜日、ブラジルGPの優勝トロフィー授与式が、イモラのスタートフィニッシュライン付近で行われ、ついにフィジコの手に初優勝トロフィーが渡った。
「このセレモニーは僕にとっても、チームにとっても、みんなにとってもファンタスティックだった。チームのみんなと一緒にちゃんとお祝いする機会があって、特にここイタリアでそれが実現するなんて、すごく嬉しいよ。ちょっと変わった経験だったけど、本当にすごい経験だし、ベリーハッピーだよ。」

2004年:ザウバー時代

長い冬のような苦難の時を初優勝で切り抜けて迎えた反動の時。フィジコは「青いフェラーリ」を選んだ。
「今はこの場所で、自分にそれだけの才能があると証明しなければならない、ここはそんな場所なんだ。」

燃料を多く積んでピットストップを遅らせるというコンサバティブなザウバー戦略が、持ち前のスムーズなドライビングスタイルにマッチし、後方から上位完走を果たす驚異的なレースを何度となく繰り返したフィジコ。次々とよみがえる本来のアグレッシブな速さ、そして長い苦闘の日々を経て培われてきたスマートな強さ。まさに、どこからスタートしても戦える−−そんなフィジコの再評価が高まる中、シーズン途中の7月下旬、早くもルノー(元ベネトン)への移籍が決定した。

実にこの年、かつての自己最高だったフル参戦デビューイヤー1997年の20ポイントを越える、22ポイントをようやく獲得したフィジコ。次の扉を開くための「自己証明の場所」と自ら位置付けたチームで、文字通りに自己を証明し、扉の鍵を得たのだった。
そして、フェラーリへの夢か、勝てるマシンへの権利か−−フィジコが選んだのは後者だった。

2005年:ルノー1年目−衝撃的なポールトゥウィンの幕開けから一転、苦悩の末にコンストラクターズタイトル獲得へ

「打倒フェラーリ」を掲げるルノーチームで、新たなスタートを誓ったフィジコ。
「自分のポテンシャルを極める覚悟を決めた。これまでよりもっと頑張って、周囲の人々をプッシュしていけば、みんなで何勝もできるはず。」
「これからはルノーで、自分の本当の速さをみんなに見せつけたい。」

迎えた開幕戦で、早くもフィジコの思いが現実となった。1996年の春、メルボルンのスタート−フィニッシュラインから希望に満ちて走り始めたフィジコは、9年後の2005年の春、まったく同じこのスタート−フィニッシュラインを、誰よりも速く駆け抜けた。誰にも文句は言わせない、堂々のポールトゥウィン。初めてのウィニングラン、初めての表彰台−−あの頃はあっという間に乗れると思っていたこの一番高い場所に、今日やっと乗れたのだ。その上に掲げられた、初めての自分のためのイタリア国旗、そしてイタリア国歌−−9年前に夢見ていたその日は、その夢は、この日、確かに始まったかに見えた。

だが、続くマレーシアGPでは、一瞬の判断ミスで他車と絡んでリタイヤ。途端に流れはガラリと変わった。勝てるはずなのに−−フィジコだけに執拗に起こり続けるマシントラブル、苛立ち、ミス、そして戸惑い。片やチームメイトは、着々とワールドチャンピオンの座に登りつめていく。開幕戦以来ようやく上がった表彰台は、シーズンも終盤の地元イタリアGP(1988年のアルボレート以来のイタリア人表彰台)。鈴鹿の最終ラップの1コーナーまでトップを走り続け、力尽きたマシンでたどり着いた2位表彰台には、いつもの笑顔はなかった。最終戦中国GPでは、アロンソと共にフロントローからスタート、3位以下のマクラーレン勢を押さえ込むチームワークに徹し、コンストラクターズタイトル獲得に大きく貢献。だが、そのタイトルは、一番ではなく二番目に望んだものだった。

2006年:ルノー2年目−「シンプルに、ワールドチャンピオンを目指していきたい」

チャンピオン・アロンソの翌年移籍の電撃発表、チーム撤退の噂・・・チャンピオンチームらしからぬ動揺を抱えたチームで2年目を迎えたフィジコは、トップを維持するべく攻撃的なコンセプトで製作された新車のシェイクダウンを担当し、オフシーズンからチームをリードしていく。チームの未来のために、自身の未来のために、チームが、自分がトップに立つしかない。だからこそ「シンプルに、ワールドチャンピオンを目指していきたい。」

ちょうど10年前にF1デビューを果たした記念日にシーズン開幕を迎えたフィジコは、開幕戦でいきなり、昨年の悪い流れを引きずるかのようなトラブルでリタイヤ。しかし、2年目のフィジコは変わっていた。そのわずか1週間後、自身163戦目のマレーシアGPで、まさに昨年の流れが一転するきっかけとなった同じ地で、逆に流れを取り戻すことになる。

初日から、どのセクターでも、ワールドチャンピオンであるチームメイトを上回る自信あふれる走り。虎視眈々と勝負の時を待ち、一発のアタックをノーミスで、自身3回目のポールを決めた、あまりに強力な予選。だが、プレスカンファレンスのポールシッターの表情に笑顔はなかった。8歳のときに共にカートを始めた仲だったという、1週間前に事故で亡くなった親友に「明日の勝利を捧げたい」・・・その言葉通り、ポールから見事なスタートを決めたフィジコは、高温多湿の過酷なコンディションの中、攻め続けることでコンセントレーションを維持するという攻撃的な安定感を発揮。圧倒的なレースで完璧なポールトゥウィンを飾った。

母国イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は、この勝利を「フィジケラ、芸術的な勝利」と絶賛した。
「マレーシアGPでは、魔法のように車を操り、キャリア最高のレースを見せた。あのように絶対的な安定感と優美さを兼ね備えたドライビングを見せるのは、今日では彼だけである。」

ほぼ1年ぶりに立った表彰台の真ん中で、フィジコは1年前のようにはしゃぐこともなく、静かにイタリア国歌を口ずさんでいた。やがて天を見上げて目を閉じ、亡くなったばかりの親友に向かって、世界一高い所から、世界一彼に近い所から、勝利と祈りを捧げるように、国歌の終わりに左手で小さくガッツポーズをした。
そして、旧ベネトン時代からの担当レースエンジニア、アラン・パーマンをついに表彰台に伴ったフィジコの想いは、軽いものではなかった。2人で続けてきた長い長い戦いが、ついに、勝利のときに変わろうとしていた。変えてみせる、今度こそきっと・・・残るタイトルはあと1つ。今やライバルは、チームメイトだけだ。

フィジコとマレーシアGP

初開催の1999年、そして翌年と、2年連続でフリー走行中にピットレーンを間違えるという、思わず笑ってしまうようなエピソードを持つフィジコ。2006年の優勝より前は、過去7戦中最高9位、リタイヤ3回、マシントラブルでスタートできない年すらあり、フィジコとセパンとの相性は決してよいとは言えなかった。極めつけは、2005年のリタイヤだ。初めてのトップチームで、初めて勝てるマシンに乗り始めたばかりだったとはいえ、たった1つのミスが、シビアなチャンピオンシップ争いの中では命取りにさえなることを、フィジコは嫌というほど思い知らされることになる。

ルノー移籍後の初戦でポールトゥウィンを決め、自信たっぷりに迎えた2005年のマレーシアGP。その自信が空回りしたのか、マシンにトラブルをかかえてパフォーマンスの上がらない状態で、後方からオーバーテイクをしかけてきたウェバーと交錯してリタイヤ。このミスをきっかけに、流れはガラリと変わった。着々とワールドチャンピオンの座に登りつめていくチームメイトを横目に、自分だけに執拗に起こり続けるマシントラブル、苛立ち、ミス、そして戸惑い。19戦という長いシーズンを延々ともがき続けたフィジコが、表彰台の頂上に立つことは二度となかった。

この相性の悪さを見事に覆したのは、翌2006年。シーズン開幕戦で再発したかに思われた悪い流れを、今度は逆に自力で取り戻したフィジコ。その勝ち方は、それまでのマレーシアでの散々な戦いぶりを一掃する、ダントツのポールトゥウィン。過去の2勝とは異なる完全ドライでの、文句のつけようのない完璧な勝利に、母国イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙も「キャリア最高のレース」と絶賛した。2勝目に引き続きポールトゥウィンでの3勝目に、フィジコはさらにポジティブな意欲を語った。「これからは、いろんなポジションからスタートしても、どんどん勝てるように頑張るよ。」

これからのフィジコ

10年前にメルボルンで駆け出して以来、変わらぬピュアな速さに、数々の戦いを通じて研ぎ澄まされてきたテクニック。そして、ドラマチックなレース展開の数々を、生粋のローマっ子らしいオープンなハートとパワーで乗り切ってきた、しなやかな強さ。何度も手の届くところまで追いつめ、ついに手にした初優勝。そして、ルノーというトップチームで覚え始めた勝ち方・・・そんなかけがえのない宝物の数々を得たフィジコにとって、今後数年間はまさにキャリアのハイライトになるだろう。
「将来のワールドチャンピオン」−−その夢がかなう日は、本当に来るのかもしれない。これから重ねていく優勝のひとつひとつを、大切に胸に、心に刻み込んで行きたい。



ファンクラブ事務局 Last revised March 29 2006
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