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ロード・トゥ・フィジコ


フィジコの歴史をひもときながら、感動シーンを連載でプレイバック。フィジコ初心者はもちろん必見!長年見守ってきたベテランのみなさんは、懐かしい思い出にひたってください。
−オフシーズン連載復活!今オフシーズンは、ベネトン時代、2000年からの歴史を振り返ります−

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Vol.12: 2001年 復調ムードの後半戦〜ルノー大躍進の礎となったシーズン (updated on March 4 2008)
2001年の前半戦は入賞1回のみと、革新的なマシンにありがちな産みの苦しみに翻弄される形となったベネトンF1チーム。だが、夏のヨーロッパラウンドあたりから、徐々に戦闘力を取り戻し始める。

その第一歩となったのが、ドイツGPだ。予選順位こそフィジコ17位、バトン18位と今ひとつであったが、決勝では、アクシデントのためスタートがやり直しとなり、上位陣にトラブルが発生、次々と脱落するという波乱の展開の中、確実に走り抜いたフィジコとバトンは、それぞれ4位と5位のW入賞を果たす。続くハンガリーGPで新空力パッケージを投入した後、迎えたベルギーGPではフィジコが予選8位と、この年初めてのシングルグリッドを獲得する。

ベルギーGPの決勝では、4周目にブルティとアーバインがクラッシュし、赤旗中断、再スタートに。その再スタートでフィジコはロケットスタートを見せ、一気に2位へジャンプアップすると、その後は表彰台圏内でレースを進め、終わってみれば3位で表彰台に立つこととなる。しかも、このレース、2度目のピットストップではリアタイヤのみを交換するという奇策を見せる一幕もあった。チームとフィジコの力が一体となって得た表彰台と言えよう。

だが、実はこのベルギーGPの直前、フィジコはルノーからジョーダンへの移籍を決めていた。一説には、複数年の契約を希望したフィジコ側と、単年契約を提示したチーム側との相違とも言われているが、ルノーがフィジコを手放すことについて、メディアで疑問の声が多かったのは事実である。そんな状況にあっても表彰台を獲得したベネトンチームとフィジコは、まさしくプロフェッショナルな仕事をしたと言えよう。

そして迎えた最終戦、日本GP。ここでもフィジコは絶好調であった。予選では、この年ベストの6位を獲得。しかも、5位ハッキネンと7位クルサードという、マクラーレン勢の間に割って入るという大健闘であった。

決勝でもその勢いは止まらない。スタートで5位に上がったフィジコは、3周目のデグナーでスピンし、一旦は12位に順位を落とすも、そこから激しい追い上げを見せる。次々とマシンをパスし、気がつけば7位まで挽回。中でも、チームメイトのバトンをシケインで思いきりオーバーテイクする様は、見ている者をしびれさせた。残念ながらトラブル発生のため、レース終盤にマシンをガレージに止める結果となってしまったが、日本のファンにとっては記憶に残る痛快なレースになったことは間違いない。

ルノーはこの後、徐々に競争力を増し、2005年には念願のタイトルを獲得することとなるが、そのルノー大躍進の礎となったのは、この2001年シーズンであると言えよう。
2001年:ベネトン・ルノープレイライフ
全17GP出場 獲得ポイント8 ドライバーズランキング11位(26人中)予選最高位6位(日本GP)決勝最高位 3位(ベルギーGP)
Vol.11: 2001年 ベネトン最後の、そしてルノーエンジン復帰の年。革新的なマシンB201登場! (updated on Feb 9 2008)
2000年にルノー買収が決まったベネトンF1チーム。よって、この2001年はベネトンとして最後の年となる。エンジンは1996年以来の復帰となるルノーRS21。チームメイトは、2000年にウィリアムズからデビューした新進気鋭のジェンソン・バトン。テクニカルディレクターには、ジョーダンGPの大躍進の一翼を担ったマイク・ガスコインを招聘し、ルノーのF1復帰がただならぬものではないことを感じさせる。そしてRS21はバンク角111°とも言われる広角低重心の設計で、周辺の冷却系やバルブ駆動系などにも革新的なメカニズムが投入された期待のエンジンであった。

しかし、プレシーズンのテストでは、パッとしたところは特に見られず、逆に時折起こっていたマイナートラブルで、テストのプログラム進行に支障があるのでは、と不安感を感じさせていた。それは開幕を迎えても同様であった。

開幕戦オーストラリアの予選順位は、バトン16位、フィジコ17位。続く第2戦マレーシアも、フィジコが16位でバトン17位というまさかのグリッド。革新的なメカニズムを導入したため、信頼性に欠け、そして熟成に至らずにマシンの速さに欠けるというのが、原因の一つであった。かろうじて第3戦ブラジルGPでフィジコが1ポイントを獲得するも、当時テールエンダーのミナルディに追い回される展開も珍しい光景ではないという、苦闘の前半戦となってしまった。

だが、そんな苦しい状況でもフィジコが光る走りを見せてくれたのが、第7戦モナコGPだ。この年初めて予選トップ10入りを果たしたフィジコは、決勝スタートから徐々に順位を上げ、ポイントを狙える位置でレースを進める。惜しくもレース中盤でリタイアするも、久しぶりに見せてくれたフィジコの走りに、ここまで溜まったファンのフラストレーションも一気に吹き飛んだ。奇しくもこのモナコGPは、マシンの性能で劣る、ジャガーのアーバインやプロストのアレジも活躍を見せ、フィジコの快走とともに、モナコが改めてドライバーズサーキットであることを示したレースとなった。

フィジコが得意とするモナコでの快走劇は、ベネトン・ルノー反撃のきっかけとなるか?と思われたが、続くカナダGPでは、チームメイトのバトンとともに予選で下位に沈んでしまう。さらに焦りが引き起こしたか?同士討ちからオープニングラップでレースを終えてしまい、チーム浮上にはまだまだ課題が多そうな気配のまま、前半戦を終えることとなる。
2001年:ベネトン・ルノープレイライフ
全17GP出場
Vol.10: 2000年 アクシデントに泣いた後半戦も、フィジコの頑張りでトップ4奪回! (updated on Jan 14 2008)
2000年の前半戦、B200の高い信頼性を活かして9戦全て完走し、表彰台3回を含む5回の入賞と大活躍のフィジコ。後半戦も大ブレイクが期待された。

しかし、第10戦オーストリアでザウバーのペデロ・ディニスに、そして第11戦ドイツではM・シューマッハに、いずれもスタート直後押し出される形でクラッシュ、そのままレースを終えてしまう。特にドイツは予選3位と好位置からのスタートだっただけに、非常に悔やまれた。更に第12戦ハンガリーと第13戦ベルギーはいずれもマシントラブルでリタイヤとなり、真夏の欧州ラウンドでは4戦連続リタイヤに終わるという、前半戦からは想像できない展開となってしまった。

この苦しい状況にもかかわらず、8月にベネトンはフィジコの残留を発表する。この年の3月にルノーへのチーム売却が決まったため、2001年はベネトンとしての最後の年となる。エンジンは何度も栄冠をつかんだルノーエンジン。来季に向けて期待が膨らんだ。

そんな明るいニュースはあったが、マシンの戦闘力は上昇せず、苦戦が続く後半戦となる。結局、後半8戦でフィジコはノーポイント、しかも完走はわずか3戦のみ。ベネトンチームも、ブルツがイタリアで2ポイントを獲得するのみにとどまった。

だが、フィジコが前半戦で獲得したポイントが功を奏し、チームはこの年の目標であった1997年以来のコンストラクター4位の座を取り返すことが出来た。苦しみながらも得た最高の結果と言えよう。
2000年:ベネトン・プレイライフ
全17GP出場 獲得ポイント18, ドライバーズランキング6位(23人中)予選最高位3位(ドイツGP)決勝最高位 2位(ブラジルGP)
Vol.9: 2000年 オーソドックスなマシンB200でトップ4返り咲きを狙う! (updated on Dec 3 2007)
1999年型マシンB199の反省から、ベネトンは一転してコンサバティブなマシンB200を送り出す。シンプルなメカニズムで、高い信頼性を誇るマシンに仕上がった。エンジンは昨年同様、プレイライフという呼称の、旧ルノーエンジンをベースにしたスーパテックFB02だ。しかし、2000年型プレイライフエンジンは、ルノースポーツが本格的にチューンを手がけたもの。パワー・トルクともに昨年型を大きく上回り、更にドライバビリティが高く、滑りやすいコースでのコントロール性に優れていた。

チームメイトは、1998年から3年目となるブルツ。B200と2人のベネトンボーイズで、2年続けて失ったトップ4の座に返り咲きを狙う。

そして迎えた開幕戦オーストラリアGP。シーズン序盤はマシンの熟成不足からか、リタイアが続出するレースも珍しくないが、この年のオーストラリアGPもやはり、完走は22台中9台というサバイバルレースになった。そんな中、予選9番手からスタートしたフィジコは、確実に周回をこなし、5位入賞を果たす。コンサバなマシンB200の旨みを引き出し、今シーズンの手応えを感じさせる開幕戦となった。

続く第2戦はブラジル。予選5位と絶好調のフィジコは、目一杯の燃料を積んで決勝レースに挑む。その重さゆえに序盤は苦戦するが、レース中盤の35周目に3位に上がると、そのままチェッカーを受け、今シーズン初表彰台を獲得する。更にレース後、2位クルサードがフロントウィング最低地上高違反で失格となり、フィジコは2位に繰り上がることとなる。このブラジルGP直前に、ルノーのベネトンチーム買収、そしてF1復帰が発表されたばかり。それに花を添える形の表彰台となった。

その後の第3戦サンマリノから第5戦スペインまではノーポイントに終わるが、第6戦ヨーロッパGPは雨の中で5位入賞を果たし、続くモナコは3位で表彰台に立つ。この年のモナコGP直前のバレンシアテストで、フィジコはマシンが横転するほどの大クラッシュを喫したが、そのケガも癒えぬままに得た価値ある表彰台となった。

続く第8戦カナダGPは、予選こそ10番手に沈むが、決勝ではB200の特性を活かした重いタンクで1ストップ作戦を敢行。天候も味方し、途中から雨が降り始める。フィジコは絶妙のタイミングでウェットタイヤに交換。それが功を奏し3位に浮上、そのままチェッカーを受け、この年3度目の表彰台に立つ。

次のフランスGPでは9位に終わったものの、フィジコは前半の9戦を終えて全て完走。5戦で入賞し、そのうち3戦は表彰台、18ポイント獲得でランキング5位と、予想以上の大活躍であった。フィジコとベネトンがB200の良さを最大限に引き出して得た結果と言えよう。
2000年:ベネトン・プレイライフ
全17GP出場
Vol.8: 1999年後半戦、掴みかけた初勝利 (updated on Feb 14 2007)
1999年のイギリスGPまでの前半8戦を終えて、フィジコは13ポイントを獲得し、ドライバーズランキングは7位。そして、ベネトンのコンストラクターランキングはこの時点で5位であった。かつてのチームメイトで、ベネトン最大のライバルであるR・シューマッハは19ポイントで6位。フィジコは、ベネトンがトップ4に返り咲くために倒さねばならない相手の直後に付け、後半戦での巻き返しが期待されていた。

しかし、この年のベネトンは後半戦で大苦戦。予選では中位以下に沈み、決勝でもこれと言っていいところがなかった。かろうじてハンガリーGPで予選4位に付け、意地を見せるも、トラブルからリタイアに終わり、このレースもポイント獲得に繋がらなかった。

不振の原因はいろいろと噂されたが、やはり、FTTとデュアルクラッチシステムという新機構が熟成に至らず、結局、本格的に導入されることはなかったことが影響したようだ。ただし、FTTについては、2004年にBARが同じようなシステムを導入し(後にレギュレーションで使用が禁止されるが)、その年の大躍進の一端を担った。また、デュアルクラッチシステムの思想は、近年、シームレスクラッチシステムへと構造を変えて、各チームとも積極的に開発に取り組んでいることから、ベネトンに先見の明があったことは間違いない。

マシンの開発が後手に回る形となったベネトンであったが、フィジコはそんな環境の中でも必死に闘い続けていた。そして迎えた、ヨーロッパラウンド最終戦となる第14戦ヨーロッパGP。ドイツ・ニュルブルクリンクで行われた決勝レースは、気まぐれな天気に各チームとも翻弄される形となる。

トップに立つドライバーが次々とトラブルやアクシデントに見舞われ、あるものはレースを終え、あるものは順位を大幅に落とすというサバイバルレースとなった。フィジコは雨の中、マシンを確実にコースにとどめ、レース中盤にトップに立つ。しかし、フィジコも残り20周を切ったあたりでコースアウト。手中に掴みかけていた初勝利を逃すこととなる。

結局この年、後半戦でフィジコはポイントを獲得するに至らず、またベネトンもコンストラクターランキング6位に沈むこととなる。

だが、この年の最終戦、日本GPでは、第1回鈴鹿ミーティングが開催され、フィジコも、当時のマネージャー・マテウチ氏や、ベネトンのチーム広報ジュリア女史と一緒に出席。日本公式ファンクラブにとって記念すべき年となった。

1999年:ベネトン・プレイライフ
全16GP出場 獲得ポイント13 ドライバーズランキング 9位(24人中)予選最高位 4位(ハンガリーGP)決勝最高位 2位(カナダGP)
Vol.7: 1999年前半戦、革新的なマシンでトップ4奪回を狙え! (updated on Dec 28 2006)
1998年に続き、フィジコはベネトンでチャンピオンシップを闘うこととなった。チームメイトも昨年と同じく、オーストリア人のアレクサンダー・ブルツ。そして1999年シーズンのチーム目標は、昨年失ったトップ4の座に返り咲くことであった。

この年のマシン、ベネトンB199は、エンジンこそ旧ルノーV10の発展型ではあるが、全くの新機軸を投入した意欲的なマシンに仕上がった。目玉は、「フロント・トルク・トランスファー(FTT)」と呼ばれる、ブレーキング時のフロントのトルクを左右にバランス良く配分し、ブレーキの効率を上げるシステム。そして、シフトチェンジ時のタイムラグを無くす、「デュアルクラッチ」というシステムであった。だが、この2つの革新的なメカニズムは、その複雑な機構からか、プレシーズンのテストでもなかなか熟成が進まなかった。そのため、投入が見送られるレースも少なくはなかった。

そんな中、迎えた開幕戦オーストラリアGPで、フィジコは予選7位、決勝4位とまずまずのスタートを切ることができた。続く第2戦ブラジルGPでは、決勝こそギアボックスのトラブルでリタイアに終わるも、予選は5番手と好位置を確保する。

ヨーロッパラウンドに入ってからも、第3戦サンマリノ、第4戦モナコと連続入賞を果たし、派手な速さはないものの、堅実なレース運びで確実にポイントを稼いでいった。

そして、初夏のモントリオールでの第6戦カナダGP。過去2年連続で表彰台に立ったこの地で、この年もフィジコは魅せてくれた。予選7位からスタートしたこのレース、フィジコは終始ポイント圏内で走行。途中アクシデントから何度もセーフティカーが導入されるという、波乱の展開の中での安定した闘いぶりであった。レース終盤には、フレンツェンと2位の座を巡り、激しいバトルとなる。

しかし、レースも残り4周となったところで、フレンツェンのマシンはブレーキのトラブルからクラッシュ。またもやセーフティカーが導入され、そのまま規定周回数の69周を走りきったフィジコは、2位でチェッカーを受ける。ちなみにセーフティカー先導のままフルラップでレースが終了するのは、CARTやINDYなどでは珍しくはないが、F1ではこれが史上初の出来事であった。

ここまでの6戦でフィジコは4回入賞し、13ポイント獲得。さらに続くフランスとイギリスでも、惜しくもポイント獲得はならなかったが、入賞を狙える位置でレースを進める。トップ4の座奪回に向けて、後半戦の闘いぶりに期待が膨らむ展開となった。

1999年:ベネトン・プレイライフ
全16GP出場 獲得ポイント13 ドライバーズランキング 9位(--人中)予選最高位 4位(ハンガリーGP)決勝最高位 2位(ヨーロッパGP)
Vol.6: 1998年、初ポールの快挙も・・・チーム混乱の影 (updated on Feb 27 2006)
この年は、コンストラクターズタイトルをめぐってフェラーリとマクラーレンが、そして、ドライバーズタイトルをめぐってはM.シューマッハとハッキネンが、激しい争いを繰り広げていた。そんな中、ベネトンチームは前半8戦で28ポイントと、トップ2チームからは大きく差をつけられてはいたものの、コンストラクター3位と、パワーが劣る非ワークス系エンジンを使用する状況下ではまずまずの位置につけていた。

シーズンの折返し点となる第9戦イギリスGPでは、途中で降り出した激しい雨で半数のマシンがリタイヤ、セイフティカーも導入されるという大荒れのコンディションの中、ベネトンボーイズは、相手が速いときには譲り合うチームワークを発揮。ブルツが4位、フィジコが5位とダブル入賞を果たしたベネトンは、後半戦に向けて上々のスタートを切ることができた。

続く第10戦オーストリアGPでは、やはり雨の予選で、最後の最後にアタックを行ったフィジコが劇的な初ポールポジションを獲得! 2位には、フィジコと同じくウェットを得意とするアレジが入る。フェラーリとマクラーレンの2強が図抜けた強さを誇っていたこのシーズンにあって、ベネトンのフィジコとザウバーのアレジ、この2人のフロントローは新鮮であった。ちなみに、イタリア人のポールポジションは、1992年ハンガリーGPでのパトレーゼ以来6年ぶりであった。

だが、決勝では、エンジンパワーがものをいうコースだけに、やはり2強チームの先行を許す展開に。さらにはあろうことか、フィジコはピットアウト直後の22周目にアレジと絡み、コースアウト。リタイアに終わり、表彰台のチャンスを逃してしまう。スペインGPに続き、フィジコの若さが出たのだろうか?

一方で、シーズン中盤にもなると、ベネトンのマシン開発のテンポは停滞気味となる。代わりに信頼性と速さを増してきたのが、前年フィジコが在籍していたジョーダンだ。ジョーダンはベネトンとは対照的に、第8戦フランスGPまでの獲得ポイントはゼロ。しかし、第9戦から第14戦まで6戦連続でポイントを獲得し、中でも第13戦のベルギーGPでは、雨の中、上位陣が崩れたこともあり、悲願のチーム初優勝をなんと1−2フィニッシュで飾る。こうしてジョーダンは、着実にポイントを重ねてきたウイリアムズと共にベネトンを激しく追い上げてくる。

そしてついに、ウイリアムズ35ポイント、ベネトン33ポイント、ジョーダン31ポイントと、まれにみる大混戦で迎えた最終第16戦日本GP。トップ4を死守したいベネトン&ウイリアムズ、ここ数年に悲願のトップ4まで届きそうで届かなかったジョーダンの3チームは、フェラーリとマクラーレンのチャンピオン争いの陰に隠れて、激しいコンストラクター3位争いを繰り広げることとなる。

しかし、この大事な最終戦の直前、ベネトンのチーム内では、代表がデイビッド・リチャーズからロッコ・ベネトンに変わるなど、混乱が続いた。その影響もあったのか、最終戦もノーポイントに終わったベネトンに対し、ジョーダンは、ヒルが最終ラップで4位に上がって3ポイントを追加。結果、ベネトンは1988年から10年に渡り守ってきたトップ4の座を明け渡すこととなった。
1998年:ベネトン・プレイライフ
全16GP出場 獲得ポイント16 ドライバーズランキング9位(23人中)予選最高位 1位(オーストリアGP)決勝最高位 2位(モナコGP・カナダGP)
Vol.5: 1998年、新生ベネトンへの移籍 〜 若さ爆発!ベネトンボーイズ (updated on Feb 4 2006)
この年、フィジコはベネトンに移籍する。チームメイトはアレクサンダー・ブルツ。1997年にベネトンでテストドライバーを務め、病気で欠場したゲルハルト・ベルガーの代役で3戦を走り、表彰台1回という実績を持つ。フィジコ同様、フラビオ・ブリアトーレ傘下の有望な若手ドライバーの一人であった。

当時のベネトンは、1994年にドライバーズチャンピオンを、1995年にはドライバー・コンストラクター両タイトルを獲得。1996年と1997年にはベルガーとジャン・アレジというトップドライバーを擁し、勝ち星こそは2年間で1勝に終わるも、常に上位を争い、トップチームの一角を成していた。

しかし、この1998年からルノーが撤退。エンジンはそのルノーエンジンをベースにしたカスタマー仕様のプレイライフとなり、さらにブリアトーレ、ロス・ブラウン、ロリー・バーンらチーム首脳陣が離脱と、チームは変化を余儀なくされていた。ベネトンにとって新たな出発といえるこの年、タイヤをブリヂストンに変え、ドライバーにはフィジコとブルツという若い二人の組み合わせは、チームに新たな勢いを与えてくれそうな予感であった。

事実、プレシーズンのテストでは、チームは順調にマイレージを稼ぎ、プログラムを消化していく。大きな冒険を避けたシンプルなマシンは、トラブルとは無縁で、タイムもまずまず。あまりに急激に変わったチーム体制のため、前評判に疑問符が付いたことは事実であるが、テストを重ねるごとに評価は上がり、1998年シーズンのダークホースとまで予想されるようになった。

そんな状況で迎えたシーズン序盤、フィジコはブルツに対し、やや遅れを取る展開に。開幕戦の予選こそ上回ったものの、開幕からの3戦では、ブルツが入賞2回に対し、フィジコは入賞1回、リタイア1回。前年1年間をベネトンで過ごしたブルツの方にアドバンテージがあるのも、仕方のない話ではあった。

そんな焦りもあったのだろうか。巻き返しを図りたい第5戦スペインGPで、フィジコは2列目という好位置からスタート、表彰台を狙える位置でレースを進めていたが、残念なことにアーバインと絡んで、レースを途中で終えてしまう。アーバインの背後から激しく追い立てていたフィジコであったが、ちょっと勝負を急ぎすぎたか? さらにはマシンを降りた後、アーバインに激しく食ってかかる姿が国際映像で見事に放映されてしまい、フィジコはこの件で罰金を科せられることに。

しかし、その直後の第6戦モナコGPで、フィジコは華麗な走りを見せてくれる。フリー走行から絶好調のフィジコは、金曜日は2位、土曜日は何とトップタイムを叩き出し、予選は3番手となる。そして決勝では、M.シューマッハと激しいバトルの末、2位となり、モナコで初めての表彰台に立つ。続く第7戦カナダGPでは、実に21周に渡ってトップを快走。ピットストップ作戦ミスやトラブルに泣かされはしたものの、初優勝に手が届きかけた好レースで僅差の2位と、2戦連続の、そしてカナダでは1997年に引き続き2年連続の表彰台に立つ。この2戦で、フィジコはついに本来の自分の走りを取り戻したのだった。

ここまでの前半8戦を終えて、フィジコは13ポイントでドライバーズランキング6位、ブルツは14ポイントで5位。チームメイト同士がいい意味でお互いに刺激しあい、昨年のチャンピオンであるヴィルヌーブを上回るほどの活躍。ベネトンのコンストラクターランキングも3位となり、新生ベネトンにとってまずまずのスタートを切ることが出来たといえよう。
1998年:ベネトン・プレイライフ
全16GP出場
Vol.4: 1997年、最高のフル参戦デビューシーズン 〜 勢いづく才能と抜群の安定感 (updated on Jan 16 2006)
チームメイトとのアクシデントで、F1での初入賞・初表彰台をアルゼンチンで逃したフィジコ。このような形でチャンスを逃すと、次のチャンスはなかなか訪れない事もF1の世界では多々あるのだが、フィジコの場合は違った。

ヨーロッパラウンドの開幕となる第4戦サンマリノGP。予選こそラルフの先行を許すも、レースを確実にまとめたフィジコは、3位のアーバインに遅れることわずか5秒の4位と、ポディウムまであと一歩のところまで詰め寄る。アルゼンチン、ブエノスアイレスでの悪夢を自らの手で払拭する、堂々とした闘いぶりであった。

その後、第5戦は雨のモナコGPで6位入賞。しかも一時は2位を走行して周囲を驚かせると、第6戦スペインGPではファステストラップを記録。続く第7戦カナダGPでは3位となり、ついにF1で初めての表彰台に立つ。さらには第10戦ドイツGP、真夏のホッケンハイムで予選2位となったフィジコは、ついにフロントローに立ち、このコースを得意とするポールポジションのゲルハルト・ベルガーとのトップ争いに挑む。惜しくもタイヤのバーストでチェッカーを受けられなかったものの、フィジコの若い才能は勢いを増すばかりであった。

そして、その才能をめぐり、シーズン半ばにもかかわらず、ジョーダンとベネトンの間で争奪戦が繰り広げられることとなる。

当時、フィジコは、ベネトンのチーム代表フラビオ・ブリアトーレとマネージメントに関する契約を結んでいた。その結果、フィジコはブリアトーレが代表を務めるベネトンからレンタルのような形でジョーダンに籍を置いていたのだ。ジョーダンとの契約期間は1997年と1998年の2年であったが、1997年の7月にベネトンがオプションを行使すれば、1998年の契約はベネトンに優先権があるという状況であった。ベネトンはそのオプションを行使し、フィジコを1998年のドライバーとして迎え入れたいところであったが、フィジコの才能を高く評価しているジョーダン側も、フィジコを簡単に手放したくはない。チーム同士で交渉が重ねられ、やがてついにフィジコの1998年ベネトン入りが決まった。

シーズンを3ヶ月残してのこの発表により、フィジコ本人はもちろん周辺もがベネトンとジョーダン両チームの板挟みの形となり、フィジコのパフォーマンスに影響を与えるのでは、と心配されたが、ジョーダンもフィジコもプロフェッショナルであった。第12戦、8月末の雨のベルギーGPでは2位表彰台を獲得。母国凱旋GPとなった9月の第13戦イタリアGPでは、この年のチャンピオン、ジャック・ヴィルヌーブを押さえ、さらには優勝したクルサードまで6秒という僅差での4位入賞と、フィジコの勢いはそれまでと変わることはなかった。

この年、フィジコは20ポイントを獲得し、ドライバーズランキング8位というめざましい成績もさることながら、17戦でリタイヤは4戦のみと、フル参戦1年目とは思えない安定感でシーズンを戦い抜いた。ちなみに、その4戦のリタイヤのうち2戦はラルフとのアクシデントであるという事実が、ある意味このシーズンを象徴している。

フィジコにとって、チームメイトとの確執や翌年の契約をめぐる騒動など、負の面もあったが、この年が今後F1でキャリアを積み上げていく上での大きな礎になったことは間違いない。
1997年:ジョーダン・プジョー
全17GP出場 獲得ポイント20 ドライバーズランキング8位(23人中) 予選最高位 2位(ドイツGP)決勝最高位 2位(ベルギーGP)
Vol.3: 1997年、夢のジョーダン加入 〜 アルゼンチンの悲劇 (updated on Jan 2 2006)
フィジコが1996年にF1デビューを果たしたミナルディは、その年のシーズンオフに大きな変貌の時を迎えることとなる。

まずはあのフラビオ・ブリアトーレがチームの株式を大量に取得し、経営に参画する形となる。そしてドライバーに片山右京が決定、チーム初の日本人ドライバーとなる。
この時、「フィジコがマルケスとシートを分け合う」、「フィジコがレギュラーで、マルケスがサードドライバー」など、いろいろな噂があったが、フィジコのミナルディ残留はほぼ確定と見られていた。これは1996年のフィジコの走りが認められ、さらに当時のブリアトーレとフィジコの関係を考えれば、ある意味当然の事であった。

しかし、年が変わり1997年1月、ジョーダンから「ラルフ・シューマッハのチームメイトはフィジコに決定」とのプレスリリースが発表される。当時のジョーダンは、トップ4の一角を崩さんばかりの勢いに満ちたチームで、しかもエンジンはフランスの誇る大メーカー・プジョー。先に決定していたラルフのチームメイトについては、マーチン・ブランドルの残留、プジョー一押しのジャン−クリストフ・ブイヨン、さらにはあのマンセルが復帰?など、いろいろな噂が飛び交っていた。ちなみに、マンセルは1996年12月にジョーダンでテストドライブしたのも事実である。
「突然、ジョーダンのようなコンペティティブで士気の高いチームで走るチャンスが訪れた。まるで夢のようだ。」フィジコはジョーダン加入の喜びをこうコメントした。

一方で、フィジコの加入にあまりいい顔をしなかったのが、ミハエルとラルフのシューマッハ兄弟だ。特に兄ミハエルは、「新人のラルフにとってチームメイトはベテランの方が良い」という考えを持っていたため、自らエディ・ジョーダンに苦言を呈したほどだ。

シーズン前のテストで、ラルフは早くもフィジコに異様なまでのライバル意識をぶつけてくる。あるテストでは、フィジコがラルフのベストタイムをあっさりと更新。この日がテスト最終日であったラルフはすぐさまコースイン、新品タイヤ3セットを費やし、何とか100分の8秒更新してテストを終えるという一幕もあった。ちなみに、フィジコのマシンは、ラルフがタイム更新した直後、エンジンブローでこの日のテストを切り上げていた。これがなければ、このテストは収まりがつかなかったかもしれない。

ワールドチャンピオンの弟で、いわば鳴り物入りでF1にやってきたラルフがナーバスになるのはやむを得なかった。そして、おそらくはエディ・ジョーダンの狙いもそこにあって、若い二人のライバル意識がチームを上昇させてくれることを期待してのドライバー選択であったのだろう。この二人の熱い戦いは確かにチームの勢いを増すことにはなったが、一方で余りにも過熱しすぎて、コース上でのアクシデントにつながることも幾度かあった。その一つが、あの「アルゼンチンの悲劇」だ。

1997年第3戦アルゼンチンGP。スタート直後のアクシデントもあったが、フィジコは確実に順位を上げ、表彰台が狙える位置でレースを進めていた。しかし、2位走行中のフィジコに追突し、コースの外へと追いやったのは、チームメイトのラルフであった。あまりに突然の出来事に、マシンを降りると、ヘルメットとフェイスマスクをむしり取り、イヤープラグを次々と地面に激しくたたき付け、怒りをむき出しにするフィジコ。あとは呆然とレースを見守るしかない。終わってみれば、フィジコはリタイヤ、ラルフはF1初表彰台と、明暗がくっきり分かれてしまった。ちなみにこのGPはジョーダンチームにとってF1参戦100戦目という記念すべき日であったが、このGPを機にフィジコとラルフの確執はさらに深まる事となってしまった。

夢にまで見たF1初表彰台を奪われたフィジコは、後日こう語っている。
「彼とは敵対するつもりはない。ただ、友情もなければ尊敬もしていない。」
1997年:ジョーダン・プジョー
全17GP出場
Vol.2: F1デビューイヤー 〜キラリと光る才能の片鱗 (updated on Dec 16 2005)
この年の開幕戦で、ミナルディから望外のF1デビューを果たしたフィジコ。一方、本来シートを獲得したはずの井上は、その後もスポンサーとの話が進展せず、第2戦ブラジルと第3戦アルゼンチンの南米ラウンドはタルソ・マルケスが参戦することとなる。

そして、ヨーロッパラウンド開幕となる第4戦ヨーロッパGPからは、再びフィジコがステアリングを握る。結局、井上はステアリングを握ることなく、チームを去ることとなった。フィジコは何とかスポンサーをかき集めてシートを獲得したが、フィジコのようにチームからその才能を認められているドライバーでさえ、資金の持ち込みが必要な状況は、いかにミナルディの台所事情が苦しいかを物語るものであった。

さて、そういった苦しい状況にありながらも、フィジコは参戦2戦目の第4戦ヨーロッパGPでついに初完走を果たす。その後、第6戦モナコGPでは、スタート直前に降り出した雨で混乱のレースとなる中、チームメイトのペドロ・ラミーとオープニングラップで接触。そのままリタイアに終わるという結果で若さを露呈するも、第8戦カナダGPでは一転、決勝で8位に入り、この年のチームベストリザルトを記録する。フィジコとモントリオールとの相性の良さは、まさにこの最初のレースから始まっていたといえよう。

第10戦イギリスGPまで計8戦でステアリングを握った後、フィジコは、チームに資金を持ち込んだジョバンニ・ラバッジと交代となる。その一方で、フィジコはITCのアルファ・ロメオのオフィシャルドライバーとしても、たびたび表彰台に上がる活躍を続けていった。

こうして、フィジコのF1デビューイヤーは、マシンの戦闘力と信頼性不足に足をすくわれ、8戦中完走わずか3回という結果に終わるが(ちなみに、チームメイトのラミーも16戦中8完走とやはり苦戦)、予選結果では対チームメイト6勝2敗と、才能の片鱗を覗かせた。
そして、この結果が翌年のF1でのレギュラーシート獲得に大きな追い風となったのである。
1996年:ミナルディ・フォードM195B
8GP出場(全16GP)獲得ポイント0 ドライバーズランキング19位(24人中)
予選最高位 16位(オーストラリアGP・カナダGP)
決勝最高位 8位(カナダGP)

[その他:フェラーリF1ロング・ラン・テスター、ITC:アルファ・ロメオのオフィシャル・ドライバー:2位(マニクール、ムジェロ、鈴鹿)、 3位(Diepholz、マニクール)]
Vol.1: F1デビュー前夜〜突然のデビューへ (updated on Nov 27 2005)
1994年にイタリアF3でチャンピオンを獲得したフィジコは、翌1995年、ミナルディとテストドライバー契約を行う。ちなみにその時のレギュラードライバーは、ピエルルイジ・マルティニ(後半8戦はペデロ・ラミーと交代)とルカ・バドエル。しかし、現在とは異なり、当時のレギュレーションでは、サードドライバーは金曜日のフリー走行に参加することができなかった。また、ミナルディは当時もテールエンダーで資金難に喘ぐチームであったために、このテストドライバー契約は果たしてフィジコの今後のキャリアにいい影響をもたらしてくれるのか?という疑問の声もあったのは事実である。それでも、近年の傾向とは違って、持参金目当ての契約ではなく、有望な若手イタリアンのF1への足がかりにしたいという、当時のチームオーナー、ジャンカルロ・ミナルディの純粋な気持ちからの契約であることは救いであった。

アルファ・ロメオのオフィシャル・ドライバーとしてDTM/ITC等に参戦しながら、1シーズン無事にミナルディでテストドライバーを勤め上げたフィジコ。11月のテストでは、ついにフィオラノでのミナルディのコースレコードを叩き出し、「フィジコを1996年のレギュラーに」との声がチーム内で上がり始める。いよいよF1デビューか?と思われたが、2月のラウンチで発表されたドライバーラインナップは、前年の後半戦をミナルディで走ったペデロ・ラミーと、もう一人は日本人ドライバー井上隆千穂であった。井上はスポンサーを持ち込み、シートを確保することができたのである。これで再びフィジコはテストドライバーとなり、今後のレギュラー昇格や他チームからの誘いを待つ身となってしまった。

だが、フィジコにとって大きな転機が訪れる。1996年シーズン開幕戦のメルボルンでミナルディのシートに座っていたのは、なんとフィジコであった。井上が予定していたスポンサーを持ち込むことができずにシートを失い、急遽代役でフィジコがF1デビューを果たすことになったのだ。ただし、フィジコも有力なスポンサーを抱えているわけではなく、あくまで代役。井上とスポンサーとの間で話がまとまれば、再びシートを失うことになる。

複雑な経緯があったとはいえ、望外のデビュー戦となった1996年オーストラリアGP。さすがに準備不足の感は拭えず、フィジコはスピンやトラブルに苦しむことになった。しかし、予選ではチームメイトのラミーを押さえて16位。決勝では、クラッチトラブルから残念ながらリタイアに終わる。ほろ苦いデビュー戦となったが、出走に至るまでのドタバタ劇を思ってか、フィジコは満足げなコメントを残していた。
「チェッカーは受けられなかったけど、僕のF1初体験は満足できるものだったよ。」
1995年:ミナルディのテストドライバー[アルファ・ロメオのオフィシャル・ドライバーとして、DTM/ITC等に参戦]
1996年:ミナルディ・フォードM195BでF1デビュー
-Text by Mr.P-


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